コーヒーカップのルーツは、中国・景徳鎮
現在でこそ、コーヒーカップの代表であるドイツのマイセン窯やハンガリーのヘレンド窯ですが、もともとのルーツを辿ると中国の景徳鎮(けいとくちん 現在の景徳鎮市)にたどり着きます。
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中世ヨーロッパにはもともと高温で焼く硬質の磁器を作る技術がなく、オランダのデルフト焼、イタリアのマジョルカ焼などの陶器が古くから作られていました。そして当時、高温で焼く硬質磁器を作ることができたのが、中国の景徳鎮でした。
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オランダが中国から大量の磁器をヨーロッパに運び込むと、またたくまに当時の王侯貴族たちの間に広まっていきました。薄く、軽く、固く白い磁器はあこがれの品としてヨーロッパの人々を魅了しました。
コーヒーカップのルーツ
中国では紀元前からの歴史がある漢の時代から、すでに初期の磁器の生産が始まっていたと伝えられています。
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そして、17世紀に世界の海に進出したオランダが、東インド会社を経由して、ヨーロッパに磁器を運び込みました。厚手で重い陶器しか知らなかったヨーロッパの人々は、東洋から来た磁器の素晴らしさに驚くとともに、自分達でもなんとか磁器の製造をはじめようとしました。
磁器は「白い金」と呼ばれるほどに、高価でもあったようです。
その後、中国の明朝から清朝への政変により、景徳鎮からの磁器の輸出が途絶えてしまいます。代わりに注目されたのが、朝鮮からすでに技術が伝わり、磁器を製造していた日本の伊万里焼です。
とくに「柿右衛門様式」と呼ばれる、すばらしい赤色を使った絵付けは、マイセン窯の磁器などにも大きな影響を与えます。
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1709年になり、ようやくヨーロッパで始めてのカオリン石を使った硬質磁器がベトガーやチルンハウス伯爵などにより生み出されます。そして翌年の1710年に設立されたのが「王立ザクセン磁器工場」(マイセンの始まり)です。
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今回、たまたま手元にあった日本のデパートで開催かれた「マイセン展」の目録を中国在住の方に見ていただいたところ、おもしろいことに気が付きました。
素人が見ると「これは中国の絵柄を写したのかな」と思うような、そうとう古いマイセンでも「もう中国の絵とはずいぶん変わってきていますね」と感想が出てくることです。
ヨーロッパへの輸出が拡大するにつれて、もともとの中国の絵柄は、ヨーロッパで好まれる絵柄へと変わっていったのです。
やはり当時から、東洋で好まれる絵柄とヨーロッパで好まれる絵柄の感覚はかなり違ったようです。
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